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OUNDABOUT
1.呼








吉良イヅル。


この名をつけたのが一体、誰であったのか。
そして、その名の由来がどのようなものであったのか。
名づけられた当人でさえ、すでに、定かには覚えていなかった。
ただ、父母が呼んだ「イヅル」という響きが、記憶の底にしずんだ昔日のおもいでと、現在の自身をつなぐ、数少ないよすがとなっていることは確かだった。
しかし、学徒時代からは苗字で呼ばれる事がならいとなり、今となっては自然、下の名前を呼び捨てにされる事のほうがなんとはなしに面映い。

「イヅル」

考えてみれば、すでにその名で呼ぶ人物とは、ただの一人しか思い当たるところがない。
下官に対するには、少しなれなれしい呼称。
それでも、やわらかな上方なまりで紡がれる言葉の中に、ひょいと、自身の名が顔を覗かせると、まるでその言葉が異なる意味を放つもののように思えて、彼は、いつも心持ち頬を緩ませながら、「はい」と適正な返事を返すのだった。

「ついておいで、イヅル」

あの時も、彼はそう言った。
阿散井が旅禍との戦闘で、重度の損傷を負ったあの日。一時的に行方不明となっていた彼を発見したのは、旅禍の行動を事前に察知するため、朽木ルキアの幽閉されている懺罪宮周辺を巡回していた時だった。巨大な破壊音とまきあがる粉塵に気付き、走り出す部下達の歩調を吉良はわざと緩ませた。ここで騒ぎを起しておけば、今後、市丸が派手な行動を起すとしても動きやすくなる。街に火の手が上がるときほど、利益が上がりやすいときもないのだ。そして、阿散井ほどの腕があれば、結果的に旅禍を捕獲できるだろうと、そう、踏んだ。

派手に崩された倉庫の横手に、転がっている血まみれの旧友。
その姿を見つけたとき、脳裏を横切ったのは、やはり学徒時代をともにすごした雛森の姿だった。彼女が探していた阿散井は、今、ここに横たわっている。
その事実を、伝えることにためらいを覚えたものの、これだけ大きなイレギュラーが目前で生じている以上、もはや、公に報告しないわけにはいかない。
せめて、中央への報告によって裁量が下される前に、彼女へ伝えよう。そう思って吉良は、五番隊隊舎まで、急ぎの使いを走らせたのだった。



「、、そんな、、、、!」

大きな痛手を負って横たわる阿散井の姿を前にして、雛森は二の句を継げずに押し黙る。滲む涙を堪えて小刻みにふるえるほそい肩に、吉良は言い訳をするような気持ちでいくつかの言葉をならべてみせた。

「僕が見つけた時には、もうこの状態だったんだ。もう少し、早く見つけて僕が加勢していれば、、」
「、、ううん、、そんなの、、吉良君のせいじゃ、、」

本当のことを隠して紡がれた自分の言葉に、なんの力もこめられていないことを吉良自身が自覚する。そして、彼女が全く疑うことなく呟いた許しの言葉に、それ以上の自己弁護を積み上げる気を失った。

「、、、、、ともかく、四番隊に連絡するよ。上級救助班を出してもらおう」

せめて、彼女の動揺をあおらないように、勤めて冷静な口調で言葉をつなぐ。こみ上げる嗚咽をかみ殺し目に涙をためたまま、強く両手を握り締めていた雛森は、吉良の言葉に、コクリと、無言でうなずきを返した。

「その必要はない」

背後から、低い声音が響いた。

「牢に入れておけ」

六番隊隊長、朽木白哉。阿散井の上官である彼に、もっとも速く情報が渡るであろうとは予想していたが、ふいに現れるなり能面のような無表情で言い放たれた無慈悲な言葉は、少なからず吉良と雛森を動揺に陥れた。

「そ、そんな、、、阿散井君は、一人で旅禍と戦ったんです、、、それなのに、、、」
「言い訳などきかぬ」

上官の命令は絶対。それでも、阿散井を庇おうと口にした雛森の釈明の言葉は、ただ、一言のもとに切り捨てられた。

「一人で戦いに臨むということは、決して敗北を許されぬということだ。それすら解らぬ愚か者に用などない。目障りだ、早く連れていけ」

揺らぎのない上流階層のアクセント。大きく目を見開いて、その声の持ち主を見つめる雛森の小さなこぶしが強く握り締められ、かすかに震える。

「、、、、、ちょっ、ちょっと、待ってください!!そんな言いかたって、、」
「よせ!」

振りかえることなく、その場を立ち去ろうとする朽木隊長に、なお、追いすがろうとする同僚の肩をとっさに掴んで引き戻す。

「だって、吉良君!」
「申し訳ありませんでした!」

軽く眉根を寄せながら振り返った他隊の上官に、吉良は深々と頭を下げた。ピクリとも動かず下げつつけた頭の上で、食いしばった歯の根の間から搾り出すかのように雛森が告げる謝罪の声が響いた。
ゆっくりと遠ざかる規則正しい足音が耳に届かなくなるまで、ひたすら頭を下げ続ける。たとえ、副隊長の身分でも、正面きって上官に意見するなら、それなりの覚悟が必要だ。雛森のまっすぐな激情が、まわりまわって彼女の身に災厄をもたらしかねない事を、吉良は以前から危惧していたが、それでも彼女に、汚物を飲み込めと強いるようなマネはしたくなかった。伝えられない言葉を胸に秘して、ただその代わり、人の気配が遠ざかってなお、深く、深く頭を下げ続ける。その胸中で、いまだ出血のやまない阿散井の体を案じていた。

朽木隊長が、直々に治療の差し止めを明言した以上、かってに四番隊を呼びつければ明らかな越権行為となる。なんらかの手を早急に打たねばならない。そう考えあぐねていた時、すぐ真横で聞きなれた声が聞こえた。

「おー、こわ!」
「市丸隊長!」

まるで、はじかれるように顔をあげる。一体、いつの間に現れたものか。長身痩躯、袖のない羽織をかるくはおった自身の上官が、部屋の片隅で笑っていた。

「何やろね、あの言い方。相変わらず怖いなァ、六番隊長さんは」
「あの、、」
「あァ、心配せんでもええよ。四番隊なら、ボクが声かけてきたるから。ついておいで、イヅル」
「はい!」

ひらひらと薄い手のひらを振って、手招きをしてみせた市丸は、するりと踵を返し、室外へと出て行く。彼に取り計らってもらえれば、ひとまず阿散井の処遇でカドがたつことはないだろう。吉良は、已然、硬く手のひらを握り締めたまま立ちすくんでいる雛森の肩をポンとたたいて、そのまま市丸のあとを追った。

ほんの一呼吸おいて、雛森の謝礼の声が背後から追いかけてくる。それに片手を軽く挙げてこたえた上官の背を、まぶしく見つめながら数歩下がって歩いていく。やはり、自分も謝罪の言葉を述べるべきだろうと判断し、口を開こうとした。そのとき、市丸は、ほんの世間話のようにひとつの言葉を口にした。

「明日なァ、、藍染隊長が死ぬんや」

あまりといえば、あまりのことに、吉良の歩みが止まった。目を見開いて絶句しているその姿をゆっくりと振り返り、市丸は、口角をつりあげてケタケタと笑った。

「自分、えらいおかしな顔しよるよ?」
「、、隊長、、あの、藍染隊長が、、どうして、、?」

さも慶事を知らせるかのように軽々しく、不穏な言葉を放って見せた上官の意図をつかみあぐね、吉良は、ただ呆然と聞き返す。
まるで、何の意図も読み取れない無表情な笑みを深めて、市丸はすうと、自身の刀を引き抜いた。

「犯人は、ボクや。そう思わせろと、言われた」
「言われた、、一体どなたに、、?」

短い問いかけには答えず、身の丈に比して非常に短い抜き身の刀を、彼は、だらりと右手にぶら下げた。変わらぬ笑みを浮かべ、ぼそりと言い放つ。

「ないしょ」

白々と光る残像を描き、ぱちりと刃を鞘に収めると、それ以上何も言わずスタスタと前を向いて歩き出す。

「市丸隊長!」

その背を、小走りに追った。

「隊長は、、、、これから一体、どうなさるおつもりですか?」
「イヅル?」
「はい」

ほんのわずか垣間見えた上官の横顔から、笑みが消え去っていることに気付く。

「、、、、、、雛森ちゃんは、自分のこと、どう呼んどったかな?」
「、、吉良、、、苗字に君づけ、、ですが?」
「吉良、、、吉良君、、かァ、、、」

ふわふわと、まるで上の空のように吉良の名を口中で繰り返す。ふいと、中空を見上げ、じっと考え込む様子を見せる彼が、ほんの少し落とした歩調にあわせ、吉良もまた、歩みを緩める。

「イヅル?」
「はい」
「、、、、幼馴染は、大事にせなあかんよ、、?」

振り返らぬまま呟いて、怪訝な表情のまま戸惑いを隠せない吉良に、市丸は、ふわりとやわらかく笑んでみせた。



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